第8回作文コンクール入賞作品

一般の部 最優秀賞 坂 晋宏
        優秀賞  赤坂 武司
         佳作   平岡 和芳
               中井 裕次郎
               岡橋 浩二


『思いやりとは』 大宮道場 一般の部 最優秀賞 坂 晋宏 
思いやりとはなんだろうか。それは気配り、相手の立場になって考える等、人によって千差万別、様々な意見・定義が存在する。
まず思いやりを考える上で一般的な言葉の定義を調べてみる。広辞苑(第二版)には、おもいやること、気のつくこと、自分の身に比べて人の身について思うこととある。また思い遣りとも書かれている。相手に対して思い遣るということでこれが語源であると考えられる。これを基にすると、思いやりとは相手に対して思いを持っているということである。相手に対して思いを持たなければ、人間関係の構築は不可能だろう。
しかし言葉の語源がそのまま現在の言葉の意味となるかと問われるなら、答えは否である。なぜなら言葉は時代とともに変化するからだ。
では、思いやりが語源から変化した意味はなにか。それは相手に対する思いを行動に表わすことである。相手に対してただ思うだけではなく、何らかの影響を与えられなければならない。そしてその影響とは相手にとって良い影響でなければならない。そうでなければ相手はそれを思いやりではなくお節介等と受け取ってしまうかもしれないからだ。この行動による思いやりは結果も伴われることとなる。だが結果を求めすぎることは、人間関係において逆効果を生む。思いやりを行動で示すことは失敗を繰り返し良くなっていくはずである。
私が考える思いやりにおいて一番大切な事は見返りを求めないことである。見返りを求め行動することは相手に対する思いは決して続かないからである。


『思いやり』 大宮道場 一般の部 優秀賞 赤坂 武司
「ここをどうぞ」と言って電車でお年寄りに席を譲る行為、思いやりのある行動としてとても代表的な行為の一つです。一見難しい行動ではないはずですが、常に取り組めているかと問われると、自分自身もまだまだ足りていないなと残念ながら感じます。
一方で電車で立っているお年寄りに気付いた時に、「大変かもしれないな」と言う風にほとんどの人が感じているのではないかと思います。そのように感じられる人はきっといい人であるし、優しい気持ちを持った人であると思います。しかし自分も同様ですが、なぜか照れくさく思ったり、周りからの視線を気にしたり、断られないかと考えたりなどして、「ここどうぞ」の一言を発することが出来ないでいるのだと思います。もう一歩のところで優しい気持ちを思いやりのある行動に変えれずにいるのです。優しい気持ちを持っているのに何故思いやりのある行動をとれないのか?それは優しさが必ずしも思いやりにつながる訳ではないからではないかと考えます。思いやりのある行動をとる人は、実際のところでは
「思いやりのある行動をしよう」と言う風には考えて行動していないのではないのでしょうか。恐らく「自分の気持ちに素直に行動しよう」と考えているのだと思います。「考えて」と言うよりもむしろ当然のこととして、意識していないところで行動しているのだと思います。
例えば、困っている人がいて、「助けてあげよう」と言う気持ちを持って力を貸す人と、「早くやれよ」と言った気持ちで放っておけずにしょうがなく力を貸す人がいたとします。前者は優しい人だと思いますが、後者は必ずしも優しい人とは言えないところがあると思います。しかし、困っている人はきっとどちらの人にも感謝の念を持つでしょうし、周囲の人達も思いやりのある人だなと感じるのではないでしょうか。
「大変そうだな」と思っているだけでは誰も助けられないのです。優しい気持ちが思いやりのある行動につながらないのです。
思いやりとは「思い」を「やる」ということです。「やる」とは「遣わす」ことですから、思いを伝えることなると思います。何かに気付き、相手に必要なことが何であるかを考えて、その思いを行動にして相手に伝えること、それが思いやりなのだと思います。そして思いを伝えるそのときに優しさも一緒に伝えられることが出来れば一番良いのではないでしょうか。
もし自分が今より沢山の思いやりのある行動をしようと考えたとき、優しくあることを心掛けるよりも、周囲に気を配り、自分の気持ちに気付いたら、そこに目を背けず、素直に行動することが大切なのだろうと思います。そして徐々に自然と行動出来るようになっていきたいと思います。


『思いやり』 大宮道場 一般の部 佳作 平岡 和芳
自分が考える、思いやりとは何か?思いやりとは「思い」を「遣る」。相手の今置かれている状況を感じ取り、心を配ること。そして、行動することであると思います。思い遣るだけではなく、それに行動が伴うこと。これが重要であると自分は思います。
日々の生活の中で常に思いやりの気持ちを持っているのかと自問自答すると、決してそうではありません。自分の場合は、自分の心に余裕のある時でなければ、他の人のことを思う余裕などありません。自分が目指す思いやりとは、自分の状況が厳しい時であっても常に周囲の人の事を思い遣れる、心の強さが必要であると思います。そのような中で、絶対に行動しなければならない状況があると思います。自分自身が厳しい状況であっても周りの人を思い遣り、ここぞという時に行動を起こす心と身体の強さ。それを自分のものにするために空手の修行をしているのだと強く思います。日々の空手修行を通して、強い心とそれを行動に移せる強い身体になる為にも、これからも決して後退することなく前へ前へ進んでいきたいと強く思います。押忍。


『思いやり』 大宮道場 一般の部 佳作 中井 裕次郎
思いやりとは、他人の身の上や心情に心を配ること。またはその気持ちとある。他人に優しくできるには、自分に余裕がなくてはならない。自分が自分のことでいっぱいになると人に優しく思いやる余裕などない。人を思いやるには自分自身が強くなる必要があると思う。
今いじめのことが問題になっている。自分の学生時代を振り返ってみると特にいじめたこともいじめられた記憶もないが、いじめがあったことはあったと思う。自分は無関心であった。正直なところ関わるのが面倒くさかったのである。くだらないことをしているなとは心の中では思っていたが、いじめられている子もいじめている子も友達関係でもなかったので、助けることもしなかった。
師範はいじめられているのを見たら助けろ、それが理由で標的が自分に代わってもといわれた。学生時代の自分はそれができなかった。無関心を装って逃げていたと感じる。面倒くさい事に関わっていくエネルギーと強さがなかった。
今はいじめに出くわす場面はないが、社会に出ていくにあたって、またそういう場面に出くわす、または自分が標的になるかもしれない。そんな時思いやりを持って助ける、いじめられたら跳ね返すぐらいのエネルギーと強さを空手の稽古を通して身につけていきたい。


『思いやり』 広陵道場 一般の部 佳作 岡橋 浩二
何かに困っている人に手を差し伸べたり、逆に助けてもらったり、日常生活でそういった経験は誰にでもあると思います。それが何気ない事でも相手に取ったらすごくうれしいことかもしれません。
少し前の話になるのですが、ちょうど私の仕事場の前で一人の高校生が雨宿りをしていました。いつから雨宿りをしていたかはわからないのですが、雨も止む気配もなかった為、傘を貸してあげました。その場は礼を言って高校生は帰って行きましたが。次の日に会社の前に貸した傘と手紙が添えてありました。内容は感謝の手紙でした。私はビニール傘を貸しただけなので別に帰ってこなくてもいいと思っていましたし、わざわざ手紙まで…しかし感謝されるといいことはしたんだなと気持ち清々しく感じました。私自身の何気ない行為が相手からしたらすごく救われた事かもしれません。
思いやりとは、自分でしてあげて感じることではなく、何かをしてもらって感じることだと思いました。小さな行為でも、相手からしたらとてつもなく大きく感じることもあるかもしれません。生きていく中で人と人との繋がりをしていく大事な物だと思います。